Dave Rastovich(ラスタ)

デイビッドラスタビッチ(ラスタ)はディックバンの親しい人物の一人として広く知られている。そして彼らの結束は傍から見ても完璧なように見える。ディックバンがラスタを語るとき、それはとても微笑ましくみえる。ディックバンは言う(私達が始めてであった時、初対面にもかかわらずとても意気投合した。それから私達はお互いに助け合いその関係は一方通行ではなく、お互いに思いやりを持っていた。ある日彼は私に、あなたといると全てのことがうまくいくような気がすると言ってくれた。それからというもの私達はもっと親交を深め、そして全て完璧に分かり合えたと思う。その関係はまるで運命のようで、お互いに時間にとらわれず、なんでも言い合える環境だったと思う。そしていつでも私は彼のたった一人のシェイパーで全てのボードデザインからチューンまで仕上げています。)ワールドクラスのサーファーである彼は、このボードを愛しこれからも世界に数え切れないチェレンジをしていくことであろう。

 


 


ディックバンを支えた人々

ディックバンはポジティブでインテリな人です。70年代のサーフィンブームの始まりから彼はそこにいた。彼はサーフィン業界で起こった全てのことをその目で見てきた人物です。例えば当時コンビバンの車に寝泊りしていた友達がサーフィン業界の立役者になり億万長者になるのを、そして彼は感じた。。人々がまた違う方向へ行ってしまったと。見た感じ彼はまだ感情をこらえながら皮肉のように話ていた。アートのシェイプとその他のサーフ業界のシェープとの間には大きな違いがある。サーフィンがスタートしたころサーフボードマニュファクチュア(ここでいうマニュファクチュアとは小さなサーフボードファクトリー)は広告をサーフィン雑誌に載せるだけの人々であった、しかし今のサーフボードマニュファクチュアはサーフ雑誌に広告を提供することすら出来ない。(大手のコンペティション側のサーフブランドがコントロールているため)それらはサーフィンインダストリーとは言えない、確実に違うと。管理されたシステムの中では全ての事に言い争いもなく従順で、それはまるでムチによって馬を操るジョッキーのようだ。サーフィンインダストリーやカルチャーは人々の独創性から自然に波及し生まれてくる物であり、メディアや金のために流行る物ではないと。ディックバンはそれらのコンペティションサーフィンの箱には絶対に従わず閉じ込められないと言っている。彼はボードの機能性を追及しシェープし続ける。そして今日でも、彼を知っている人は口をそろえて彼はアーチストだと言う。アーチストは常に夢の中に存在する。夢の中60年代後半にさかのぼって今でも夢の中でシェープしている。サーフィンそして彼のファミィーユニットは彼にとって一番大切な要素でありそれが全てである。彼は言う(私の人生はラッキーだった、私たちが魅了されたサーファーが近くにたくさんいて、我々は思った道を行き、責任を持ちそして若い人たちに影響を与え続けた。私は本当にラッキーだった、デーブラスタビッチ、ラスタやThorntonfallander,ジョーエンジェル、マイケルホー、マークフーのような人々と会い、その他あなた方が知っているような人々と協力し合い助け合えたこと。彼らはみんなお互いに助け合って成長した人達です。私はとても満足でしたB)それらなしには考えられないと。

 


 


ディックバンストラレンのサーフィン哲学

ディックバンは言う。。近年サーフボードインダストリーはメディアや業界の中心にいる視野の狭い現実と多すぎるコンペティション側のフォーカスによって歪み全てを抑制しルールを作られた。その反対側にいるドリームサーフィンの世界は脚光を浴びず常に日陰の存在でありアンダーグラウンドの世界であり続けた。ディックバンは続ける。。サーフィンのアートの領域そしてヒストリーについて。サーファーの人々そして多分サーフィンをしていない人もサーフブランドのシャツを着て通りを歩く。サーフィンはもうサーフィン自身が持つステータスは失われた、サーフィンが持つ個性の範囲。。どうやってあの日に戻れるのか?
サーフィンというスポーツは色んな人々が集まりグループの中で1つの同じ行為をするトライバルである。(ここで彼の言うトライバルとは民族と訳す。)すべて同じように楽しくそして夢の中をさまよう。それらはナチュラルなスポーツで初期のサーフィンは周りに壁がなかった。コンテストサーフィンは著しく成長し周りに壁を作った。金とサーフィンメディアとによって壁は作られ外にはいけず、一般のサーファーは考えることも出来ない状態にある。私たちはこの今のサーフィン業界をどうやって評価すれば良いのかわからない。サーフィンメディアに惑わされず是非自分で物を考えることが出来るサーファーになって欲しいとディックバンは言う。

 


 


ドリームウェイ

ディックバンは言う。(1960年代後半の頃私達はしたくないことはしないと決めた。夢だけを追い続けた。そのようなライフスタイルは受け入れられ、そうすることで違う視野と世の中で何が起こり間違い私の意見という物を持つことが出来た。私の意に反し今日人々は私をGURU(先生と訳すと一般的)と呼ぶ。私達はアートという違う側に立った視野でコンペティションサーフィンという現代の風潮を見続ける。私はサーフィンはコンペティションスタイルよりもむしろアートのスタイルであるべきだと思う。しかしいつの時代でも競争をしたがる人々がいる。)ディックバンは1960年代の終わりにバーレーにいた、そして今もなおそこでシェープする。色んなバラエティーのボード、古いバルサのロングボードからシングルフィン、アルミやエポキシで出来た現代のフィッシュまで。より良いバランスを考え、それらのコンセプトは、いつの時代もあらゆるシェイパーを震撼させた。しかしディックバンは有名であるにもかかわらず、サーフィン業界に旋風を撒き散らすのではなく人と違う自分だけの道を歩むことが宿命のようだった。1980年代の彼のビジネスはファクトリーの火事の後焼け散ったテンプレートとロッカーカーブを持ち出しアンダーグラウンドにシェープした。当時はサイモンアンダーソンのスラスターが世に登場してきた頃でそれと逆行するように。当時彼のモダンなデザインと斬新なアイデアを持つボードシェープは脈打つフィンガーと呼ばれた。彼が関係をもち続け成長したラスタ(デービッドラストビッチ)と共にお互いにインスピレーションを受けた結果アンダーグラウンドではなく、またシェープをフル活動させた。彼は自分でも信じられないぐらい楽しんでシェープしていると語っている。人々がどれだけ彼のボードを愛しているか。有名なボードデザインに彼のスタイロフォームフィッシュがある。このモデルはまったっく非がなくラスタのラディカルなフリーのライディングスタイルによって欧米メディアを中心に脚光を浴びさせたとは言うまでもない。カリフォルニアのスキップフライとよく比較されるが、いまさら説明するまでもなくこれらのフィッシュはニーボードから影響を受け人々がニーボードにたってライディングしたところからnまる。1965年に戻った40年の時を超えて今またメインストリームに受け入れられた。

 


 


ディックバンストラレン本人

ディックバンストラレンとすばらしい話が出来た。サーフボード革新のワールドリーダの一人であるクラシックウォーターマン。今日ディックバンはデービットラストビッチと共に更なる面白いボードを作り続ける。この記事を読めばディックバンがずっと業界の革新者であることが分かるであろう。ディックバンのコンセプトである、ライデイングをしていて面白いボードというのは近年ファッションになりつつあり、これからも実験を重ね彼はボードのデザインを追及していくだろう。ディックバンのアンダーグラウンドな流行は30年以上続いてきた。ディックバンは選ばれし10人のオーストラリアンサーフィンレジェンドの1人であり古い世代の人たちには、すばらしい物語を見させてきた。当時マークリチャーズ、ナットヤング、ジョージグリーナフこれらの名前で分かるであろう、そう彼は普通のシェイパーではない。初期のサーフボードマニュファクチュアーを支えてきたパイオニアである。最初のオーストラリアンサーフィンスクールの立役者でオペレーター、COOLITEサーフクラフトの発明者でありすばらしいサーファー。そして家族思いの哲学者であり、オーストラリアのサーフィン業界にとどまらず世界に多大な貢献をしてきた人物です。




偉大なるワールドレジェンドシェイパーディックバンストラレン

ディックバンストラレンは1960年代にオーストラリアシドニーのサーファーたちとクイーンズランドに移住してきた最初の1人だった。彼はシドニーで結婚しカンタス航空で働いていた。その頃彼は思った、今より良い仕事はないのかと。彼にとって良い仕事とは最低週2,3日の休日があることと給料が良いこと。これらは彼がコンビバンに乗りクイーンズランドの北にサーフィントラベルに出ることが出来ることだった。(私たちは両親からのプレッシャーから逃れたかった。それならいっそのことクイーンズランドに引越しすればよいのさ!そして定住の土地クイーンズランドはゴールドコーストに移住したのです。当初私たちはひとつの家に20人以上で住んでいた。そこから牧場の中にある小屋でシェープの仕事を始めました。最初の仕事はブリズベンにオープンしたてのサーフショップKENGOODNSVAGERのADLERSURFのために。オーナーのKENは私に車を与えてくれた。そして私はファームでボードをシェイプしフィニッシュとポリッシュをしにブリズベンまでドライブすることの繰り返しであった。そして私たちはキラに空き店舗があることを知り、スポンサーのKENに話をして、そこにショップを構えることになった。その名はSEASPILIT。そこで私はボードをシェープするためにハイウェイ沿いにファクトリーもオープンした。そこでは私ディックバンとキースポール、ニールセン、そして二ールパーチェスも共同でシェープした。私たちは全てのボードをここで作りブリズベンとSeaspilitにおいた。その頃のライダーにThorntonfallander,ジョーイーグル、マイケルホー、マークフーのような人々。古いバーレーシアターアーケードでも1970年以降のドラッグカルチャーによって時代を劇的に変化させていた。それからまもなく私にとっての暗い過去であり忘れられない出来事が起こる。それは火事によって全てが違う方向に動き始めた。全てをなくしそこから私はアンダーグラウンドでシェープし続けた。その時妻と始めたSeaislandclothingがスタートし風向きが変わった。1995年にデービッドラスタビッチ(ラスタ)と出会いもう一度本格的にシェープを始めるきっかけとなり今がある。)
inserted by FC2 system